sait0’s blog

思想があり、それを概念として提示するだけではなく、実践する生き方

6. 時間

年末に帰省した時、祖母の家に何日か泊まったのだが、私はなんとなく居心地の悪さを感じていた。毎年年末は私の家族と従兄弟の家族が祖母の家に集まって新年を迎えるというのが恒例になっているので、昨年の年末も祖母の家で年越しをした。いつものように年越しをして、これまでと変わったことは特になかったのだが、私は「もしかしたら来年はもう祖母の家で年越ししたくないかもな」と思った。その時はなぜこんな気持ちになったのかよくわからず、うっすらとした違和感と居心地の悪さだけがあったのだが、年が明けて家に帰ってきてから振り返ると、その居心地の悪さの原因がわかった。

私がその時に感じた違和感と居心地の悪さの正体は「流れている時間が違う」ということだった。私は大学進学を機に地元を離れて一人暮らしをしている(結構実家から離れた地域に進学したので、頻繁に帰省するのは物理的にも金銭的にも難しい)。一人暮らしを始めてから4年が経とうとしているが、その間に私は色んなことを経験して色んなことを考えて生きてきたつもりである。だから多分実家で暮らしていたあの頃の自分と今の自分は色んな意味で異なっているはずである。しかし、帰省して実家に帰ると特に祖母にとっての私は、いつまでもあの頃の子供のままであるような気がしてならない。それを祖母の振る舞いをみていても、会話をしていても感じたのだ。だから私は、自分と地元(祖母)との間に流れている時間がズレはじめているのだということを感じたのだと思う。そんなことがあってから、最近私は流れる時間について考えている。

自分と他者の間に流れる時間について考えていて思ったのは、対人関係に関わる時間と、何かについて考える時間では、私の中で好ましいと思うスピードが違うのだということだ。どうやら私は、誰かに何かを連絡したりする対人関係においてはその時間が速い方が心地よく、反対に何か思考する時はなるべくゆっくりしたいと考えているようである。

対人関係に関わる時間として思い浮かんだのは、友人と旅行にいく場面である。先日、中学校時代の仲間と旅行に行こうという話になった。どこかに旅行に行くということは決まったのだが、実際にどこに行くのか、何日行くのか、どうやって行くのかということが遅々として決まらず、そのことに私は少し苛立っていた。これはまずいと思って私からさまざまに提案をするのだが、他のメンバーからのレスポンスはゆっくりで、結局旅行の詳細を決めるのに1ヶ月くらいかかってしまった。

それに対して、また別の機会に大学の友人とスキーに行こうという話になった時には、決めるべきことがスパスパと決まっていってとても居心地が良かった。スキーに行こうということが決まってグループラインができてすぐに、ある一人が行き先を提案してくれた。それに全員がすぐに反応して、ある人は宿を探し、ある人は航空券を手配しという感じでそれぞれがすぐに動き出して、ものの1時間ほどであっという間に旅行の行程が決まっていった。

この二つの旅行の詳細が決まるまでの時間を経験して感じたのは、私はこういう他の人と一緒に何かを決めなければならない時は、なるべく素早くやるのが心地良いのだなということであった。もっと言えば、私はあることについて長期間考え続けるのがあまり好きではなくて、決めるべきことがあるなら集中的にそのことについて考えて、一気に決めてしまう方が良いのだ。そういうことも含めて、対人関係においてはレスポンスが早くてどんどん話が進んでいく”速い時間”の流れが好みである。

それに対して、何か思考する時はスローに行きたいと思っている。中高時代と大学一年生くらいまで、私はビジネス書や自己啓発書と呼ばれる類のものを読むのが好きだった。しかし最近はめっきりその手のものを読まなくなった。それはビジネス書や自己啓発書に書かれていることはあまりにも賞味期限が短いと感じるようになったからである。特にビジネス書は、その時代の速度に合わないものはそもそも読んでもらえないので、書かれて数年たったら状況が変わっているということが往々にしてある。そんな時代の流行り廃りに流されないようなやり方でものを考えていたいなあと今の私は思っている。

なので今は学術書やエッセイ、小説ばかりを読んでいる。学術書はその時に起きていることだけではなく、これまで積み重ねられたものの上に成り立っているし、エッセイや小説は何かを断定することがあまりないので、それを読んだ後に自分でゆっくりと考えることができる余白がある。そういう理由で今のところはそんなものを読んで、ものを考えるようにしている。私にはものを考える上では”ゆっくりとした時間”が流れている方が性に合っている気がする。

これは速い遅いどちらが良いとか悪いとかいう話ではなく、単純に自分にとって心地がよいのはどのような速さで流れる時間なのだろうかということでしかないと思う。しかし、自分と気があってよく一緒にいる友達はおそらく自分と近しい時間の流れ方をしているのだろうし、反対に自分にあまり合わない速さで流れている時間の中に身を置き続けていると、だんだんとそこにいるのがしんどくなってくるというのもまた事実であるように思う。私の中では帰省した時に滞在する祖母の家で流れる時間は、時を経て少しづつ自分とは異なるものになっていったのだろうし、中学時代の仲間たちとは”流れる時間”という点においてはちょっとずつずれが生まれてきているのかなと思ったりしている。