sait0’s blog

思想があり、それを概念として提示するだけではなく、実践する生き方

2. 卒論を提出した

学部の卒業論文を提出した。なかなか執筆モードになれず、本格的に書きはじめたのは12月も半ばになってから。ゼミ内の提出を目前に控えた時期だった。

書きはじめて気づいたのは、何万字という文量が必要な文章は三日三晩では完成しないということ。もっと早く取りかかれば良かったと思っても後の祭りで、締め切りがもう目前に迫っていた。修論でもっときちんとしたものを書かなくてはいけない日がいずれ来るので、ここでは今回の卒論執筆の反省と、もっとこうしておけば良かったと思うことを備忘録として書き残しておきたい。

 

取りかかりは早ければ早い方がいい

これは言わずもがなだが、論文執筆に取りかかるのは早いに越したことはない。というか、ずっと最終的に論文を書くのだということを念頭に、色んな本を読んで勉強して、きちんと理解し、自分なりに理論を作るということをずっとやっていった方がいい。今回は本当に付け焼き刃で、「この書籍に書いてあるからこういうことが言える」というレベルでしか論文を書くことができなかった。自分で調査してわかったことを書いているところはある程度形になったと思うけど、研究背景や考察の部分は自分で書いていることに対しての深い理解もなく、ただ書いてしまった部分が多分にある。修論レベルになったらそんなことはまかり通らないはずなので、自分で引用する理論はもちろん、その背景まできちんと理解してから論文を書くということが必要である。

そのためには普段から定期的に学術書を読んで、その内容をきちんとアーカイブしておくことが大事で、それは一朝一夕には決してできない。幸い自分は書籍を読むことは好きなので、これも日々の習慣にしていきたい。その上で、書いてあることをただそのまま理解するだけではなく、そこで言及されている先行研究にまで遡り、その議論の前提となっている事柄についてもきちんと理解していきたいと思う。

毎日少しづつでも書く

これは指導教員の先生に論文執筆を始める前に言われたことでもあるのだが、その時は言わんとしていることがよくわからなかった。しかし今こうして自分で一本の論文を書き終えた後に振り返ると、このアドバイスは本当にその通りであった。大学の先生たちはこの道のプロであるので、これまで何十本も論文を書いてきている。そんな先生が言うのだからこれは本当にそうなのだろうし、自分の実感としてもこれは実践するべきだと思う。

ローマは一日にしてならずで、何万字という文字数になる論文をきちんと論理立てて書こうと思ったら、数日間では絶対に書き上げることはできない。一日一日コツコツと文章を積み重ねて、それを検証するということを繰り返さなければ、論文と呼ぶに値する文章は書けない。そういう意味でも毎日少しづつ書くということはとても重要なことである。次回はこれをちゃんと実践できるようにしたい。

学問に終わりはない(というか世の中のほとんどのものはそうなのだろうけど)

論文を書いていて、そしてそのために調べ物をしていて身に染みたのは、調べれば調べるほど、学問には果てがないということである。例えばある学説Aについて書くとして、まずはそのことが書かれた書籍や論文を読むことから始まる。その論文を読んでいると、この学説Aは別の学説Bという前提のもとに成り立っていることがわかる。次にその学説Bについて調べると、今度はこの学説についてはCとDという議論がなされているということがわかる。そしてこのCとDについて調べると・・・という感じで、次から次に色んなことを知らなければ、学説Aについて書けないということがわかってくる。考えてみればこれは当たり前で、学問というのは数多の先人たちの叡智の上に成り立っているわけなのだが、今回実際に論文を書いてみてこのことを肌で感じた。

今回はなんとかなったかもしれないが、今後はその議論の前提となっている事柄まで全てを自分なりに理解した上で進んでいかなければならないのだと思う。大学の先生方が毎日のように論文を読んでいるのは多分そういうことで、その対象について過去の歴史から最新の学説までを網羅していないととてもこの修羅の世界ではサバイブできない。今回でそのことがよくわかったので、学術書や論文を読むことを習慣にしていきたい。

文章は書くことでしか上達しない

不思議なもので、完成したと思った文章も何度も読み返すとあちこちにおかしな句読点や誤字脱字が見つかる。また、自分で書いた文章を読み返してみると同じような表現ばかりを使っているなあということがわかってくる。これはもう文章を書き続けることでしか克服することができないのだと思う。あとはきちんと推敲をすること。

これまである程度文章は読んできたはずなので、言葉のアーカイブというか文章の引き出しはあるはずである。それを生かしていくためにも、書く筋肉をきちんと鍛えないといけないのだということを改めて感じた。書く力をつけるためにこのブログも続けていきたいし、定期的に論理的な文章も書いていかなくてはいけないと思う。本当に文章は書くことでしか上達しない。

逆に言えば、書くことで文章力はある程度鍛えられるはずである。今回たった1ヶ月ほど書く生活を続けただけで、これだけの文量の文章をそんなに抵抗なく書くことができている。書き続けることで少しづつ自分がどんな時に書きやすいのかとか、どんな順番で書けば筆が進むのかということもわかってきた。とにかく書き続けられるように自分で色々と工夫していきたい。

自分の文章や論を批判の風に晒すことは必要

今回の卒論はほとんど1人で書き上げてしまったのだが、自分の文章を誰かに見てもらってコメントをもらったりすることは絶対に必要である。もちろん1人で黙々と書く時間はなくてはならないが、ある程度まで書き上がったり論が出来上がってきたら、他の人に見てもらうことは大事。今回は指導教員の先生に書き上げた後にコメントをもらったが、自分では至らなかった点を次々に指摘していただいた。誰かに見てもらうのは怖い。しかしその過程は絶対に必要で、それがあるからこそ文章は完成度の高いものになっていくのだと思う。最初は他人に見せるのが恥ずかしくなくなるくらいまで自分で突き詰めて考えて、必死に書く。そのフェーズが終わったら、さっさと他の人に見てもらって、芯を食った意見は全て甘んじて受け入れる。そしてそこでもらった知見をもとにもう一度自分の論を見直して修正し、また頑張って書く。そしてまた誰かに見てもらって・・・ということをいかに数多くできるかということに、論文の完成度はある程度かかっているのではないかという気がする。そのためにはやはり早く自分の暫定的な結論や考えを形作ることが肝要で、それも日々の積み重ねがものを言う。

 

と、ここまで書いてきたが、同じようなことを手を替え品を替え書いているような気がしてきた。とりあえずこれまでの先人たちの叡智をきちんと読んで理解し、日々考え続け、書き続けることである。これが2023年の目標かもしれない。