sait0’s blog

思想があり、それを概念として提示するだけではなく、実践する生き方

5. 変化することとその怖さ

前回、卒論を書き終えてからも論文執筆モードそのままに学術書を読み漁っており、ふと抽象的な思考ばかりしていていいのだろうかと思ったという話を書いた。今日はそのことの続きを書いてみようと思う。

愛聴しているポッドキャスト『奇奇怪怪明解辞典』の第141巻、「なぜ我々はエモに耐えきれないのか」が配信された*1。NewJeansの「Ditto」のMVを議論の入り口にして、taitan氏がエモいものを観続けることができないのはなぜかということについての話が進み、奇奇怪怪明解辞典らしい、カオスだが芯を食った議論が展開されていて楽しく拝聴した。

その中で、エモいものに耐えられない理由の一つの仮説として、「エモいものに身体を侵されていく感覚が怖い」(大意)というものが提示され、taitan氏はこれを「酒と同じ」と形容していた。酒は美味しいし味が嫌いなわけではないのだが、そこには飲み続けると気持ち良くなって何をするかわからないという恐怖が常にあるというのだ。

これを聞いて私は、前回書いた抽象的な思考にずっと閉じこもってしまうことに対する違和感の正体がなんとなく掴めたような気がした。

どういうことか。奇奇怪怪明解辞典で言及されているように、エモいものを観続けること、また酒を飲み続けることの先にあるのは、自らの身体がそれに侵されていくような感覚である。エモいものを観続けるということは、その瞬間にはもしかしたら何も生み出していないにもかかわらず、「エモ」というものに浸ることによって気持ちよくいられるということである(このことも配信内で言及されている)。また酒を飲み続けるということは、アルコールに体内を侵されることによって、ある種脳が麻痺して正常な思考をすることが難しくなるということを意味する。つまり、何かに身体を侵されることによって自らが何かしら変化してしまうのだ。taitan氏はこのことが「怖い」のだと言う。

私が前回抱いた抽象的な思考に染まってしまっていることに対する違和感というのも、こういうことなのではないか。私は抽象的思考によって身体が侵され、自らが変化してしまうことが「怖い」のである。

自らが変化するということは、当然これまでの自分とは別の自分になるということである。これまでとは違うことを考え、これまでとは違う景色が見えるようになる。外から見た自分はこれまでと同じように見えるのだが、その中身は全くの別人である。その別人は自分であるにもかかわらず、自分がこれまで出会ったことのない自分である。それはさながら初対面の人に会うようである。相手(この場合自分なのだが)がどんな行動をするのかわからない、何を考えるかすらわからない。初めて会う人をすぐに好きになることが難しいように、変化してこれまでとは違う自分を受け入れるということはすぐにできるものではない。その変化の過渡期にあっては、私が前回抱いたような自分に対する違和感や時には嫌悪感を抱くのではないだろうか。

実際前回の文章を書いてから何日か経っているが、ほとんどやっていることは変わっていないにもかかわらず、少しずつではあるが自分の変化を受け入れられるようになってきたような気がする。それは四六時中一緒にいる「自分という他者」のことが少しづつわかってきたからであるのだと思う。ここから「自己と他者」とかについて論考を深められたら面白いと思うのだが、一度に深入りしすぎると途中で息切れを起こしそうなので、それはまたどこかで考えてみたい。

*1:『奇奇怪怪明解辞典』第141巻(後編)「なぜ我々はエモに耐えきれないのか」

https://open.spotify.com/episode/3avf74qNfOF6vLW4Ph7RVk?si=YgoUJpxfRTW2VJX2_80l9Q

2023年1月19日配信