sait0’s blog

思想があり、それを概念として提示するだけではなく、実践する生き方

4. 抽象だけでよいのだろうか

哲学や人類学の理論、もう少し広く言えば人文科学と呼ばれる学問は世の中や世界の見方や捉え方のヒントを与えてくれるものであるのだということを、バイトに向かう電車の中で『世界史の構造』を読みながら思ったりした。人文科学を学ぶということは、現実世界で起こっていることを、先人たちがどのように考えてきたのかということについての知見を広げ、それを参考にしたり乗り越えたりしながら自分自身でも新たな世界の見方を提案していくという営みなのかもしれない。(といってもその入り口に立っているだけの立場であるので、見当違いのことを言っているかもしれないが。)

 

卒論を書くとき、自分自身のフィールドワークの経験をまとめるにあたって、人類学や哲学の書籍や論文を参照した。それはこれまで人類学や哲学で議論されてきたことを知り、その流れの中に自分の研究を位置付ける上で必要不可欠なことであった。しかし、そういった類のものを読めば読むほどわかってくるのは、そうした理論や考察もまた誰かの議論の上に成り立っているものであり、自分はある物事について最も上澄みの部分にしか触れていないのではないかということだった。そのことに私はある種の恐怖を覚えた。というか果たして自分はこんな浅学な状態で曲がりなりにも”論文”と呼ばれるものを書いていいのだろうかという思いに、書けば書くほどとらわれていった。それでも何かしらを自分で書いた”論文”として提出しなければならず、その期限は迫っていた。

なんとか論文は書き上げることができ、自分の中でも今できることは出し尽くしたと思える状態に仕上げることはできたが、この「こんな状態の自分」という感覚は論文を提出した後も拭うことができないでいる。

そんなこともあって私は、論文を提出した後も本を読み続ける生活を送っている。もちろん四六時中本を読んでいるわけではないが、暇さえあれば本を読みたくなり、そして手にとる本はだいたい学術書である。

これはもしかしたらいいことなのかもしれない。というか、自分の習慣が変わっていい状態になりつつあると思っていた。

学術書を読むという行為は体力がいる。特に学術的な文章に慣れていないと、まず「読もう」と思うまでに時間がかかる。気合いを入れて「読むぞ」というモードに入らないと、なかなか本を手にとることが難しい。それは学術書の濃度というか密度というかが初学者の私にとってはとても濃いものに思えて、書かれている一つ一つのことを咀嚼するのに時間がかかるということがその一因である。そしてそれを継続して読むまたは読破するとなると、余計にサクッとできるものではない。それが論文を書き終えてから今日までの間、少しづつではあるが学術書を読むというハードルが下がりつつある。純粋にこれはとてもいいことだと思う。少なくともあと2年は研究の世界に身を置くことになるので、こうした学術書や学術論文に抵抗がなくなることは良いことであると思う。ようやくスタートラインに立ったとも言えるかもしれない。

けれども、果たしてこれで良いのだろうかとふと思ったのだ。正確にはこれ”だけ”で良いのだろうかと。

 

哲学や人類学の理論というのは、文字通り「理論」であるので、抽象的である。これは世の中で実際に起きていることや過去に起こったことから、その本質となる部分を抽出することによって導かれる(と私は今のところ理解している)。そう、理論は現実から生まれるのである。今の私に欠落しているのはこの”現実”なのではないか。

もともと一人でいるのを好む性分なので、卒論を書く以前から毎日のように人に会ったり、飲み会をしたりということをしてはいなかった。けれどもこれまでの私はたしかに現実を生きていた。好きな小説を読んだり、映画を観たり、お笑いを見たり、YouTubeを見たり、時には何も考えずにボーッとしたり、たまに友達と飲みに行ったり。特に何かのためになるわけでもないが、ただ好きなことをやって生きていた。そこには余白があった。

対して、今の生活には余白がない。時間があれば学術書を読み、思考までもがすぐに抽象的な何かについて考えている。別にそれは嫌々やっているわけではないし、卒論を書き上げた今、何か必要に追われてそうしているというわけではないのだが、身体が脳がそのようになってしまっている。言うなれば常に殻にこもった状態で、ずっとその殻を固くしようと栄養を吸収し続けている。もしかしたらこれは自分自身が変身するための筋肉痛のようなものなのかもしれないが、うっすらとどこかで違和感があるのだ。

今日なんとなくその違和感の正体がわかった。私は現実から離れすぎているのだ。自分の中で卒論執筆期間に入ってから、まともに友達にも会っていない。バイトには行っているのだが、その休憩時間とかにもスマホで自分の世界に入ってしまい、誰かとどうでもいい話をしたりしていない。一日中家にいるか、ゼミのために学校に行くか、電車に乗ってバイトに行くかの日々。その移動中も本を読むか、電車が混んでいればイヤフォンを耳にねじ込み自分の世界に入る。家に帰ってきて、ご飯を食べながらビールを飲み、食べ終わったら一服してまた本を読む。この単調な日々がルーティーン化して、私は活動してはいるが、常にどこか現実とは離れた場所を漂っている。

一人でいることは大切、時には孤独になることも必要と言われるが、もしかしたら私は独りになりすぎているのかもしれない。現実から離れた抽象的な思考はふわふわと漂い続け、さらなる抽象的な思考を呼ぶ。独りでいすぎるとこのループにずっとハマったままなのかもしれない。果たしてそれは生きているということになるのだろうか。