sait0’s blog

思想があり、それを概念として提示するだけではなく、実践する生き方

4月15日

無印のラックが届く。これでようやく荷物が片付いて家らしくなった。この家に住んでいると、荷物を置くスペースがあるから物が増えていくのだという気がする。前の家は壁こそ薄かったものの家の広さはかなり広い方で、ちょっとした庭まであった。そんなところに4年間も住んでいると物はどんどん溜まっていき、引っ越しの時には死ぬ思いで物を運んだり処分する羽目になった。それに比べて今の家は、前の家に比べるとかなり狭いし収納できる場所もほとんどない。しかしスペースが限られているおかげで、少しでも部屋が散らかると途端に足の踏み場がなくなってしまうので、必然的に片付けをしないと生活をしていくことができない。そういう点においては、なんでも後回しにしてすぐに家が散らかってしまうということを避けることができている。生きるのに適切な大きさの空間というものがあるような気がする。なんでも規模を大きくしたりすることが正義のような現代だが、果たしてそれは本当にそうなのだろうか。自分にとって適切な大きさを知りそれを守るということも結構大事なのではないか。

だいぶ大風呂敷を広げてしまった気もするが、最近はそんなことを考えている。今日も「マトリックス・リローデッド」を観てそんなことを思った。そんなことを思ったというか、「マトリックス」で描いているものというのはchatGPTなどが隆盛し、AIが私たちの生活と不可分なものになりつつある今この時代にもとても示唆的だと思うのだ。

落合陽一は「十分に発達した計算機群は自然と見分けがつかない」という「デジタルネイチャー」という概念を提唱している*1。私はまだこうした議論について勉強不足であるので、真偽や実際にこのような未来がやってくるのかということについて明確に自分の考えを述べることはできない。だが、感覚的には、こうした「マトリックス」が描いたような未来は否応なくやってくるのではないかという気が今のところしている。

ではもしもそうなったとき、私たち人間はどのようにして生きていけばいいのだろうか。それは「デジタルネイチャー」を提唱する落合が、現在『マタギドライヴ』という新著*2を準備しているということは示唆的であるように思う。「マタギドライヴ」の内容はまだきちんと読解できていないが、「デジタルネイチャー」という、計算機が作り出す自然についての理論を展開する落合が、「マタギ」という極めてプリミティブな対象に価値を見出しているという点が非常に興味深いと感じている。この辺りのことは今後もきちんと勉強していきたいと思う。これらのことについて、何か論考のようなものをまとめるレベルには達していないが、ひとまずこのようなことを思っているということは書き残しておこうと思う。

*1:落合陽一(2018)『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』株式会社PLANETS/第二次惑星開発委員会

*2:PLANETSで連載され、書籍として発売予定http://wakusei2nd.com/archives/series?series_name=matagidrive

4月14日

8時ごろに目覚める。目覚めてしばらく布団の中でスマホをいじってしまう癖をやめたい。朝イチの脳にいきなりデジタルノイズを食わせるのは何かしら影響がありそう。明日から改めたい。

今日は授業もないので12時から予約しておいた美容室に行く。その前に土日に授業の課題などを進めるためにWordなどのマイクロソフト製品をダウンロードしなければならない。大学で包括契約をしているのでそれらのツールは使い放題なのだが、使うためには学内の無線LANに接続した状態でダウンロードをしなければならないらしい。仕方がないので大学の図書館に行ってWordなどをダウンロードする。ダウンロードしている間に最近気になっている思想家の東浩紀さんの『存在論的、郵便的』を借りる。東さんの名前は哲学者の千葉雅也さんらが言及していたりして前から知っていたのだが、著書は読んだことがなかった。NewsPicksで落合陽一さんと対談している動画を観て、改めて興味が出てきたので、現在の日本の現代思想研究に影響を与えたといわれる『存在論的ー』を読んでみようと思いたった。こういうのはどんな動機であれ思い立った時にすぐにやるのがいい。特に自分は熱しやすくとても冷めやすい性質であるので、鉄を熱いうちに打たないとついぞやらずに終わってしまうということがよくある。

そんなことを最近は考えているので、昨日は飲み会が終わった後その足で駅前の紀伊國屋に行って、人類学者の松村圭一郎さんの新刊『旋回する人類学』を購入した。人類学という学問についてそれがどのように現在の形になったのかということが書かれたいわば入門書である。自分の取り組んでいる分野の話なので、ある程度はわかったつもりでいたが、なるほどそういう経緯でこの理論が生まれたのかと思う箇所が多々あり、とても面白く読んでいる。自分の研究が進んでいけば行くほどこういう分野全体を俯瞰した本というのは読めなくなっていくと思うので(もっと自分の研究にダイレクトに関係する本や論文ばかり読むことになるので)、今のうちにこういう本は読んでいきたいと改めて思う。

そんなこんなで図書館でマイクロソフト製品をダウンロードしていたら時間ギリギリになってしまったので、慌てて美容室に向かう。美容室は大通り駅という札幌一番の繁華街すすきのの玄関口の近くにあり、今回はじめてそこで電車を降りたのだが、想像の10倍くらい駅がデカくてびっくりした。札幌は雪が多いので地下街がとても発達している。札幌駅からすすきのまでは徒歩15分くらいなのだが、その間一度も地上に出ずに地下道で移動することができる。美容室の最寄駅である大通り駅もその地下街と連結していてとんでもない数の出口があって危うく迷うところだった。

新しい街に来てどこで髪を切るのかという問題は結構誰もが直面する問題ではないだろうか。自分も本当は入学式の前に一度髪を切りたかったのだが、どこの美容室に行くかじっくり考えている暇がなくてしばらくそのままになっていた。福岡を離れる前にお世話になっていた美容師さんにどういう美容室がいいかということを聞いておいたので、それを元にホットペッパービューティーでお店を探した。わざわざお店に足を運ばなくても、どんなお店なのかということはネットにほとんど全て書いてあるので、選ぶこちらとしてはとてもありがたい。「札幌 メンズ 美容室」で検索してバーっとお店を見ていき、ビビッと来たお店を何店か選んで検討した。こういう作業もやり出してしまえば意外と楽しい。

今日予約していた美容室は美容師さんもとても親切な方でお店の雰囲気もよく、これからここにお世話になろうかなと思っている。新しい環境に飛び込むのは結構苦手なほうなのだが、北海道に来てから全てが新しい環境続きなので、だんだん感覚が麻痺しているというか慣れてきたのか、あまり緊張せずに行くことができた。

髪を切ってもらった後は近くにあったパルコでお蕎麦を食べ、スタバでバイト応募のエントリーをした。このエントリーも、応募しようかどうしようか今週ずっと悩んでいたのだが、新しい美容室にスッといけたことでそんなに深く悩まずにとりあえずトライしてみようという気になったのだ。自分のこれまでの人生は、何かを選ぶというタイミングで結構熟慮してきたからこそ今があると思っているのだが、最近は勢いとかそういうものも意外に大事だぞという気がしている。そこも時と場合によってうまくバランスを取ってこれからはやっていきたいと思う。

スタバを出た後はシネマフロンティアで「AIR」を鑑賞。エア・ジョーダンの誕生秘話を描いた作品で、こういうお仕事映画が好きなのでとても面白かった。人生や仕事においては、全てをそれに賭けるみたいな期間って必要だよなあと思うなど。どんなことも一朝一夕に成し遂げられることなんてなくて、日々コツコツと積み上げることが大切であるということを改めて肝に銘じたい。

4月13日

朝8時、Jアラートのけたたましい警報音で飛び起きる。北朝鮮が発射した弾道ミサイルが北海道に落下する恐れがあるという警告だった。慌ててネットでNHKのニュースを見ると、15分後くらいに落下の恐れがないことがわかったということが報じられた。落ちてきたらどうしようもできないよななんて思いながら家の中にいたので、ひとまずほっとする。今までなんとなく眺めていたニュースも住むところが変われば途端に自分ごとになるものだ。

今日は初めての院ゼミがあった。研究室の面々が集まって研究発表などをする場である。大学院の活動はほとんどこれがメインであると言っても過言ではないので、どのような感じかと思ったが、初回だったということもあり今回は緩やかに開催された。半期に一回は自分の発表をしなければならないということで、発表の順番を決めたのだが、博士課程の先輩方もいる中で比較的暇な修士一年の自分が真っ先に日程を決めるのもどうかと思って遠慮していたら、比較的早い時期に発表をすることになった。こういう遠慮というかが自分のいいところでもあり悪いところでもあると思う。その発表があるのでこれから色々と準備をしなければいけないので、ダラダラせずに自分の研究に向き合えそうであるのでまあよしとする。

ゼミの後は先輩方に誘っていただいて夕飯を近所の居酒屋に食べに行った。ゼミの面々は半分くらい海外の方だったので少し驚いた。皆さん日本語で研究を進めてらっしゃるので本当にすごいと思う。学部時代は英語で卒論発表をしたのでその凄さがよくわかる。入った居酒屋は名物店主のお店という感じのところで、入った瞬間からなぜか一番下っ端の自分が幹事だとその店主に思われていて笑った。そういう時に体育会的なノリにすぐにノれてしまう自分にも笑った。参加したのはほとんど先輩が多かったのだが、誰かが強権的に仕切る感じもなく、なんとなく自分が注文を取りまとめ配膳をする感じになった。自分は全然いいのだが、先輩がガンガン仕切るみたいな感じは日本人特有の感覚というかなのだろうかなどと思うなどする。自分の性格的にこういうところでグダグダなるのはあまり好きではないので、今後もしこういう機会があればそういう仕切り的なことはやっていこうと思う。その方が自分も周りもハッピーである気がする。

さて、昨日の日記を書いたことによって北海道に来てから自分の中にモヤモヤしていたものの正体がなんとなく掴めたような気がする。書くことによって自分の思考が整理されるという面はやはりあるのだなと実感。その後も布団に入りながらぐるぐると考えていたのだが、この修士の2年間は自分の中に蓄積を作る2年間にしても良いのではないかという考えが浮かんだ。知り合いもろくにいないし、授業もそこまでぎっちり詰まっているわけでもない。社会人になる前にこれだけまとまった時間が取れるということもそうそうないだろうから、有り難くこの時間を有意義に使っていくためには、本を乱読したり、映画をたくさん観たりとかそういう自分の肥やしとなるような活動に注力してもいいのではないかと今のところ思っている。札幌に来てからの2週間ほどで感じたことは、この土地で何か深いつながりを作ったり何か成果を出すためには2年間という時間はあまりにも短いということである。関係を構築するにはやはり短くて3年から4年の時間がかかるし、そうしてできた関係を駆使して何かをするとなればそれ以上の時間が必要である。そういったことは就職して社会に出てからでもできることであるので(むしろ社会に出てからはまずはそれしかできないのではないかと今のところ考えている)、この2年間は徹底的に内向きになって自分の中にたくさん吸収する期間にするのがいいのではないかなどと考えている。

具体的には、名作や古典といわれる映画を観たり本を読んだりすること、哲学や人類学など自分の興味関心や今後の人生に繋がりそうな分野の理論や考え方をきちんと学ぶことなどである。こうした活動をルーティーンにしつつ、大学院での研究や就職活動にもきちんと取り組み、今後の人生の礎を築くというのがこの2年間にやるべきことなのではないかという気がしている。

今日も研究室のミーティングがあって、お世話になっている先生を含めて同期の中にも北海道の豊かな自然の中でアウトドア活動や狩猟採集活動をしている人がいてそちらもとても興味があることなので、うまくバランスをとりつつ顔を出していきたい。そうした活動は片手間でやって何かが身に付く類のものではないということはよくわかっているのだが、来るべき時に向けてその下地だけでも作ることができたらと思っている。

なんにせよこれからの2年間は今後の人生における土台を作る作業に集中するのが良いのではないかという気がしている。時が経てばこの考え方も少しづつ変わっていくかもしれないが、まずはこんな考えを持って色んなことを習慣にしていきたい。

4月12日

北海道に来て10日ほどが経った。最初の一週間は毎日のように駅ビルに通って日用品を買い集め、両手に抱えきれないほどの買い物をする日々が続いた。福岡の家もバタバタと荷造りをしたので色んなものをとりあえず捨てたり売ったりしてきたせいで生活に必要なものがほとんど手元にない状態だったので、買い物に行かなければまともな生活もできないような状態だった。だからその頃は何も考えずにとりあえず毎日買い物に行っていた。

その頃はこの街の中で僕のことを知っている人は誰もいない、これからどんな自分にもなれると思って胸躍らせたものだった。しかしそれも落ち着いて日常がはじまると、待っていたのは無気力な日々だった。学校の授業もはじまったりして新たな出会いに胸を高鳴らせていたのだが、そんなにすぐに友達ができるわけもなく、学校に行く時は行くが、それ以外の時間は家に引き篭もるようになった。朝から晩まで特にすることもなく(本当はいくらでもやることはあるのだが)、毎日ダラダラと動画を見たりする日々。引っ越してくる前にあんなことをやろうかな、こんなことができるかなと思い描いていた生活とは全く違う日々を送っている。

学校は楽しい。大学院まで来るとみんな何かしらの研究をしにきているので、自己紹介でどんな研究をしているのかという話を聞くだけでみんなとても面白そうな研究をしていてその話を聞くだけでもとても面白い。それは本当にそうなのだが、みんな研究をもしくは勉強をしにきているので(そりゃそうだ)いわゆる「大学生」みたいに飲み会ウェーイとかそんな感じでは全くないのだ。自分は、もちろん研究や勉強もしにきたのだが、それと同じくらいかそれ以上にコロナで失われた2年間を取り戻したいというモチベーションで大学院に、しかも全く知り合いのいない大学院にきてしまったので、そこのギャップに苦しんでいるのかもしれない。それに加えてこちらに引っ越してくる前、まだ福岡にいる時に、勝手に札幌での生活をあれこれ想像して、こんなことできそうだなとか、こんな自分になりたいななんて淡い期待を抱いていたので、それが全然できていないこの状況がすぐには受け入れられていないのかもしれない。

こんなことを書きながら、そんな一週間やそこらであれもこれもできるわけはないのだと思っている自分もいる。それはそうなのである。今自分が福岡時代を懐かしんであの頃はああだったなあなんて思っていることも、それは福岡での4年間の積み重ねがあったから結果的にああいうふうになっていただけの話であって、すぐに何かが劇的に変わるなんてことはまあないのだ。それはわかっているつもりである。

しかしながら同時に、こんなにも家に引きこもっている自分に嫌気がさしているというのも正直なところである。話し相手もおらず親とよく電話しているのだが、母親には「単純に歳をとって周りが見えるようになっただけだよ」と言われた。確かにそれはその通りであると思う。もうこの歳になれば、大学の同級生だってみんな就職したし、もう馬鹿騒ぎして盛り上がるみたいな年齢でないこともわかっている。周りの状況はそりゃそうなのだ。それはよくわかっている。

今書きながら思ったのは、自分が今なんとなく感じている違和感というか虚無感みたいなものの原因は、周りが意識高すぎてついていけないというよりかはむしろ、新しい環境でこれだけ時間があるのに特に何もしていない、何もできないでいる自分に戸惑っているのだということだ。時間はある、新しいことを始めたりイチから自分のキャラを作っていくのにはこれ以上ない絶好の機会である。大学院の授業も想像していたよりは負荷は少なそうで時間もある。なのに、1日をただ無為に過ごし、ただ時間が過ぎるのを待っているような怠惰な生活を送っている自分に嫌気がさし始めているのである。何をするわけでもないのに自分は本気を出せばなんでもできると思っているこの傲慢さ。何か頑張りたいけどそれを始めてしまったらもう軌道修正はできないのではないかと案じて二の足を踏んでいるというこの状況。そんな風になってしまっているこの状況はとてもとてもストレスがなく楽でいいのだが、果たして自分はそんな日々を望んでいるのだろうか。そんなことをもう一度考え直すべきタイミングにあるということなのだろう。

10. 対人関係

バイトで久々にガツンとやられることがあった。私はアウトドアウェアの販売店でバイトをしている。そのバイト先では購入後の製品が使っているうちに破れたりした場合に修理をするサービスをかなり手厚くやっているのだが、その修理について今日のバイト中にお客さんと一悶着があった。修理についてのお店側のルールとしては、初期不良は無償修理や交換で対応しているのだが、購入後何年か経った使用中のトラブルに対しての修理については基本的に修理代金をいただいて修理をしている。

今日来られたお客さんは、購入後5年ほどが経過して使用感のあるフリースのほつれをを修理してほしいと持ってこられた。このケースはこちらのマニュアルでは有償での修理になるので、私は最初いつものように修理伝票を作成しようとしたのだが、そのお客さんは無料で修理ができると思ってご来店されたようで、そのあたりから態度が硬化していった。私は「まずい、これはクレームに発展しかねないな」と思って、修理受付について本来は有償で修理をさせていただいているということを一通り説明してから、無償で修理ができると思ってお店に来られたそのお客さんとの妥協点を探ろうと考えていた。しかし、そのお客さんは「基本的には有償での修理をさせてもらっている」ということをお伝えした段階で沸点に達してしまったようで、「お前らでは話にならないから直接本社に連絡する」と言って帰られてしまった。これからお伝えしようとしていたことの1割もお話できないままご立腹で帰られてしまったので、正直私は面食らった。そしてバイトが終わった後もこんな文章を書いてしまうくらいにはひきずっている。

帰りの電車の中でぐるぐるとこのことを考えていたのだが、私はどうするべきだったのだろうか。もしかしたら自分のその時の話し方や態度が悪かったのかなとかあれこれ考えたけれど答えは出ない。しかし、一つ言えることは他者と関わるということはこういうことなのだろうということである。私はあの時、こちらのシステムというかルールについてお客さんが誤解している点があるから、まずはそれを説明してからと考えてそのつもりで話していたが、お客さんにとっては無償で修理ができないという事実だけで気分を害するには十分だったのだ。こちらとしてはもうちょっと話を聞いて欲しかったという思いは正直あるが、そんなことを言っても何もはじまらない。他者が何を考えているのかということは、どこまでいってもわからないのである。

私はこうした対人関係についての経験が圧倒的に足りないのだなと今回の出来事で痛感した。これまで自分の殻にこもって自分のことばかり考えてきたから、比較的こうした対人関係のストレスは経験してこなかった。しかしこれから社会に出れば、どんなに自分の考えと相入れないと思う相手とでもなんとか良好な関係を築いていかなければならない場面が出てくるだろう。そんなとき私は果たして上手く関係を構築できるのだろうか。

そのためにはやはり自分から色んな人と関わりを持つことによって経験を積んでいかなくてはならないのだと思う。今回のケースのように、自分には悪意がなくても、相手がそれをどのように受け取るのかは究極的にはこちらが関与できることではないので、できるだけこちらと相手の間に齟齬や誤解がないようなコミュニケーションをしていかなくてはならない。それにはやはり場数を踏んで、こういう時にはこういう反応があるというデータベースを自分なりに構築していくことが必要である。

そんなことを思った出来事だった。

 

9. 他人には他人の

他人には他人の地獄がある。あーまたこの感じ、何かに集中している時は脇目もふらずにそれに没頭しているのに、それが故にその魔法の時間が終わると私はいつも抜け殻のように何もかもやる気がなくなってしまう。一人暮らしをはじめて4年ほどが経ってようやく自分のバイオリズムというか、癖みたいなものがわかってきた。自分はどうやら一点集中型で、何かに集中している時はそのことしか考えられなくて、ずっとそのことについて取り組むことができるのだが、一度その緊張の糸が切れると途端に電池の切れたおもちゃのように動けなくなってしまう質のようである。

今年に入って、というか昨年末からずっと卒論の執筆に集中してきて、それが終わったら羽を伸ばそうと友達との旅行を立て続けに計画した。今はそれが全て終わってこれから卒論発表の準備を急ピッチでしなければならないのだが、それまで集中モードに入っていたためにそのモラトリアム期間に入ってしまい、もう何もやる気が起きない。旅行から帰ってきてからもう3日が経とうとしているが、家の目の前にあるコンビニに行く元気もなく、旅行に行く前に買ってあった袋麺を毎食食べるような生活を送っている。

これまでは毎回そんなことを繰り返している自分が本当に嫌で、毎回このモラトリアム期間は自己嫌悪で死んでしまいそうになっていた。やりたいと思う気持ちはあるのに体が動かず、気づいたらYouTubeを一日中観ているような生活。本当にそんな風になってしまう自分が嫌で仕方なくて、なんとかそれを克服したいと願っていた。しかし最近はそれが自分の特性なのだから、そんな自分とうまく付き合っていくしかないのだなと思えるようになってきた。それは多分色んな人と出会って話を聞いたり、映画や本に触れる中で、完璧な人間なんて一人もいなくて、みんなそれぞれの地獄を抱えて生きているのだということがわかってきたからだと思う。

今朝も絶対に終電を逃さない女さんの『シティガール未満』を読んでそんなことを思った。フリーライターなんて職業で生きている人はみんな文章を書くことが好きで、そんな好きなことを仕事にできているすごい人だと思いがちだが、そこにはその人なりの事情があってみんななんとかその仕事をして生きている。自分以外の誰かの人生に触れるとき、それは往々にして良い面がクローズアップされることが多くて、そればかり見ていると、ああ自分はなんてだめな人間なんだと思う。けれどもその人にもその人なりの苦労やしんどいことがあってそれをなんとかやりくりして日々生きているのだということも忘れてはいけないと思う。時には自分に厳しくすることも大切だし、そうしないといけない場面も生きていればたくさんある。けれども常に戦闘体制でいなければいけないことなんてなくて、これでもいいのだと自分を甘やかす時間も人生には必要である。そのやり方や塩梅はそれぞれが自分にあった落とし所を一生探していくのだろう。ようやくやる気が出てきたので、図書館に行って発表の準備を頑張ろうと思う。

8. 次のフェーズへ

ここ数日で次のフェーズに入ったような感覚がある。これまではこのブログを書くことによってなんとか何かを考え続けていたが、そのフェーズからそろそろ次のフェーズに移行することができるような気がしている。ブログを書くために考えていたフェーズでは、日常の中から何かを拾い上げてそれを文章にするということを半ば自分に課して、無理くり考え続けていた。それはこれまでそんなことをしてこなかった自分からしたら結構しんどいことで、エイッと思わなければなかなかできないことだった。それがここ数日はほとんど無意識のうちに何かについて考え続けそれをメモしていた。だからわざわざこのブログを書く必要もなくて、思いついたときにすぐにメモアプリを起動して書き綴るだけでよかった。それは半ば強引に自分を変えようとするフェーズから、それが習慣になってきたことの現れであるように思う。

この一二週間で立て続けに、それぞれ別の友人たちと旅行に行った。結構遠方への旅だったのでそれなりに移動時間があって、その間は手持ち無沙汰だった。以前まではその時間はただ音楽を聴いたり読書をしているだけだったが、今回はその時間でその日にあったこととかを振り返って考えたことをずっとメモしていた。それは別に無理やりそうしていたわけではなくて、自然とあれこれと考えが巡ってきてただそれを書き残していただけだった。その友人たちとの時間がとても刺激的だったということはもちろんあるが、それ以上に自分の中で何か新しいフェーズに入っているような気がした。それは自然と思考し続けることであるし、それを書き残すことが息を吸うようにできている状態である。

そうなると、自分の中でのこのブログの立ち位置も少しづつ変化していくのだと思う。十分に時間があって、ゆっくり考えてそれを書き残す時間が取れるのであれば、それはわざわざこのブログに乱雑に書き殴る必要はなくて、別にただメモに残して自分の中にしまっておけば良い。ひとまずこのブログは、例えば今日のように一日の中でじっくりと何かについて考える時間がなかった日の終わりに、思ったことをバーっと書いていく場所になっていくような気がしている。そしてそれをひとまず続けて、ゆくゆくはそこからさらに進んで、それまでに溜まった大量のメモをもとにきちんと表に出すことのできるような文章を多少時間をかけて拵えていくことができればいいなと思っている。